野球の南島イデオロギー

 

text: 桂英史

 

 
 

 

 名物は「火鶏肉飯」なんだから食べなくちゃ。そう嘉義出身の人たちに言われ連れて行かれたお店は、夕食時であることもあってか、家族連れでとても賑わっていた。

 火鶏[ホーチー]は七面鳥のことで、七面鳥は首の部分が赤いので「火鶏」と呼ぶのだそうだ。火鶏肉飯は小さめのぶつ切りにした七面鳥の肉をのせ、そこにあっさり目のタレをかけたもので、ちょっとほっとするソウルフードである。

 嘉義は市内を歩いて回れるほどの小さな街だけど、日本との関係を知るためにはとても重要な都市である。日本統治時代には、阿里山から切り出した木材を運搬する森林鉄道や砂糖を集散する製糖鉄道の起点として発展した。技師八田與一が率いる、当時アジア最大の水利事業だった嘉南大圳[かなんだいしゅう]はいまでも台湾で語り継がれる歴史的な大事業である。もちろんどの事業にも日本の植民地政策が深い関わりをもっている。市内に現存する駅舎や銀行などの建物には、日本統治時代の痕跡を色濃く残している。

 その嘉義の中心部にあるロータリーに、小さな銅像が立っている。台湾台南州立嘉義農林学校(以下「嘉義農林」)が1931年8月13日から8月21日まで甲子園球場でおこなわれた第17回全国中等学校優勝野球大会(戦前の「甲子園大会」)で準優勝したことを顕彰したものである。台湾の地方都市で甲子園の痕跡を見るのは、率直なところ不思議で複雑な気分だ。この17回大会では、いわゆる「外地」からも 京城商(朝鮮)、大連商(満州)、嘉義農林(台湾)が出場を果たしている。嘉義農林は甲子園出場のみならず「全国」での準優勝を果たしたのだから、当時の嘉義の人たちの熱狂ぶりは想像にあまりある。

この嘉義農林野球部を甲子園出場と準優勝に導いたのが近藤兵太郎という人物である。近藤を描いた映画《KANO(カノ)~1931 海の向こうの甲子園》は、嘉義農林を甲子園準優勝にまで導くまでのプロセスを描いた映画である。松山商業の監督も務めたことのある近藤は強打者の漢人、俊足の高砂族を日本人の選手たちとうまくバランスさせてチーム作りをおこなった。当時甲子園の常連だった台北一中や台北商業などの有力校が日本人だけのチーム編成を取るなかで、近藤は独自の指導とチーム編成で嘉義農林を鍛え上げ、甲子園の準優勝を果たすまでのチームに育てあげた。もちろん台湾だけでなく、「内地」でも嘉義農林の活躍は大きな話題となった。《KANO(カノ)~1931》のマー・ジーシアン監督は、日本語と漢語が混じり、近代化が進みつつ活気に満ちていた、日本の統治下にある嘉義を舞台に、永瀬正敏演じる近藤兵太郎をある理想的な父親像として描いている。

 《KANO(カノ)》では、近藤の父親のような厳しさと優しさが強調され、その中に国民国家という父権的な振動を見いだすことができる。厳しさと優しさを備えた父親像はまちがいなく近代化のイデオロギーそのものと共鳴した。それは映画《フィールド・オブ・ドリームス》を見ても感じることだ。単に野球への愛情や夢だけでなく、アメリカ的な父親像が浮かんでくる。野球には、身体表現を父権的な振動に変換してしまう周波数がひそんでいるように思う。

 厳しさと優しさを備えた台湾の近代化について、野球を念頭に置いてざっと復習しておこう。日本の台湾統治は平野部に住む漢民族を支配することからはじまった。それがある程度達成されると、続いて山間部に住む先住民への統治に着手した。先住民が居住する地域の豊かな天然資源を獲得するためだった。その入植は当初武力行使を背景としたものだったが、先住民からの激しい抵抗に遭い頓挫しかける。そこで総督府は武力による統治から,平和的に先住民を懐柔する「理蕃政策」に転じた。「理蕃政策」の背景には言語の統制と身体の編制があった。1906年3月に台湾では台湾総督府国語学校中学校にはじめて野球チームができことが象徴するように、国語(日本語)と体育(身体表現の編制)は台湾を植民地支配と近代化のシンボルである。

 台湾にとっての野球はそうした近代化を象徴する「体育」のひとつとして導入された。日本の野球は明治期以来「学生野球の父」である飛田穂洲[とびたすいしゅう]が人格形成や精神修養の方法としての役割を与え、武道のような位置づけで普及していた。1895年台湾が日本の植民地となって以降、日本から来た精神野球を受け継ぐ人たちによって、台湾野球も国体という人格を育てる精神修養として位置づけられ、植民地政策の一部として移植され普及の道をたどることになった。《KANO(カノ)》で描かれているような厳しさと優しさを備えた父親像を身体化するために、台湾に移植された野球は独特な南島イデオロギーを確立していった。

 《KANO(カノ)》で描かれている先住民選手の多くは、「台東」と呼ばれる東海岸側の平地に住む先住民・アミ族だった。その実、嘉義農林が甲子園で活躍した10年以上前に、漢民族出身の林桂興の尽力によって、先住民・アミ族だけの野球チーム「能高団」が誕生している。嘉義農林が甲子園で活躍する基礎をつくったのは能高団だった。

 能高団は圧倒的な強さで台湾内のチームを圧倒し、試合を重ねるごとにアミ族ばかりでなく、台湾全土の観客を熱狂させた。総督府は1925(大正14)年に能高団の日本本土での親善試合を開催する。その際には、早稲田中学など当時の強豪校を相手に好成績を収め、日本でも大きな注目を集めた。その後、能高団からは名門・平安中学(旧制)に進学する選手も輩出している。

 能高団の内地遠征は当時総督府がおこなった「啓発観光」のひとつと言え、野球は内地でも台湾でも人々の耳目をあつめる人気のコンテンツとなった。野球に長じた先住民を内地での啓発観光に連れ出すことで、台湾では内地への憧れを誘発し、内地では先住民の統治を広報する役割を果たした。

 観客をつくったり、観光を実感させたりして、野球が台湾の人たちの精神にもたらしたのは、スポーツのおもしろさや娯楽あるいは体育のような身体の編制だけでなく、精神世界とむきだしの近代を媒介する、独特なイデオロギーだった。野球は「父との和解」あるいは「父親殺し」を叙情的に実感できる競技である。だからこそ、父親像としての大日本帝国と親和性がよかったのだろうと思う。

 こうした野球をめぐる南島イデオロギーのような啓蒙の振動は、野球というゲームのルールから引き出されたものではなく、むしろ国民国家として近代化の道を駆け上がった日本の内側にもともと存在したものだったのではないかと思う。

 嘉義で「火鶏肉飯」を食べた後に偶然遭遇した戦前の甲子園の顕彰は、とくにはっきりとした理由もないままに僕の頭を離れることないまま貼り付いて、僕にとっても啓蒙の振動をもった言語として響いていた。そのことについてのうまい説明を思いつくことができないままでいたのだ。でも、こうして野球のほうが僕を駆り立てて、ことばに向かわせていることは確かである。

 そしてすこし時間が経過するとともに、僕は何となくこう考えるようになった。野球はどこか日本の近代化の残像を背負っているのではないか。日本から遠く離れた嘉義で感じた「甲子園」も、ニューヨークのヤンキースタジアムで見た王建民のシンカーも、そしてアミ族出身の陽岱鋼が東京ドームでセンターからバックホームする姿も、結果的に野球を通じて国家を無意識に内面化してきた僕たち自身の一部ではないのかと。

 僕たちがそこで発見するものは僕たち自身の野球でしかない。遠くで見れば見るほど、野球は日本の近代史を押し開いてしまうイデオロギーとしてはたらいている。