巨大な呑み屋街 新橋の闇市

 

text: 石榑督和

 

 
 

 

 1945年11月、作家の高見順が新橋駅のホームから闇市を見下ろしたときの光景を「人がうようよと犇いていて、一種の奇観を呈している。敗戦日本の新風景−昔はなかった風景である」と日記に書いている。戦後復興期、新橋にも東京を代表する巨大な闇市ができていた。

 新橋の闇市の中心は西口にあったが、その闇市を差配していたのはテキヤとしては素人ながら、新橋・銀座・丸の内一帯の不良グループのリーダーとして戦後に松田組を組織した松田義一であった。1946年中頃、松田は西口の闇市を総2階建288店舗入居予定の「新生マーケット」へと改築する計画を進めるが、竣工前に暗殺されてしまう。松田の殺害をきっかけに、以前から続いていた松田組と華僑集団との縄張り争いが激化し、松田組が渋谷の台湾人組織を襲撃するまでになる。これが同年7月の新橋および渋谷の闇市封鎖につながることとなった。

 「新生マーケット」はその後なんども火災に合うことになるが、その都度再建され増改築を繰り返しながら1960年代まで呑み屋街として存続し、1971年に東京都によって再開発された。この時、誕生したのがニュー新橋ビルである。闇市から続く呑み屋街の営業者がニュー新橋ビルにも多く入居し、ビル低層部は今も猥雑なインテリアを持続させている。

 一方、戦後復興期から東口にもマーケットが複数存在し、こちらも高度成長期に再開発され新橋駅前ビル1号館・2号館となった。同ビルの地下も闇市の名残を感じさせる飲屋街となっている。