駅前のラビリンス渋谷の闇市

 

text: 石榑督和

 

 
 

 1946年6月、山田風太郎は渋谷駅前のマーケットを歩き、日記に「バラックのみの酒場、スシ屋、喫茶店、…いずれも一坪二坪に女と灯を盛り溢れさせたる迷路の中に入る。路ぬかるみなれど両側に気をとられて、漠然夢うつつのごとく歩めば右の細路左の路地ぐるぐる同じ場所を再び通るも気がつかず」、「このラビリンスは、めまぐるしくて、下品で、そうして子供じみていて、無性に面白い」と記している。山田がラビリンスと呼ぶその場所は、渋谷駅西側に戦中期につくられた疎開空地に台湾人組織がつくった駅前マーケットである。山田がラビリンスを訪れた翌月、渋谷事件とよばれる警察と台湾人組織の抗争が起きる。駅前マーケットは閉鎖され、さらに同年8月1日には闇市に対する全国一斉摘発が行われた。その直後、渋谷を訪れた山田はラビリンスが消滅していることを知り愕然とする。駅前マーケットは、その後も再建されていない。

 渋谷の闇市の特徴は、台湾人組織による駅前マーケットなどをのぞいて、そのほとんどが地主や借地人など土地の権利を持った人々によってつくられた点にある。個人の無名な地主から戦後の渋谷区長、そして東急のような大企業までもが地権者としてマーケットを建設している。こうしたマーケットは戦災復興土地区画整理事業や、高度成長期の建物の高層化の圧力を受け、共同ビルへと建て替わっていった。現在の渋谷に、戦後復興期の闇市の姿を残す場所はないが、1950年頃の露店整理事業をきっかけに闇市を起源とする露店が集まって誕生した「のんべえ横丁」や、スクラブル交差点地下の「しぶちか」が、その面影を今に伝えている。



参考:石榑督和『戦後東京と闇市』(鹿島出版会、2016年)、橋本健二・初田香成編『盛り場はヤミ市から生まれた』(青弓社、2013年)