4組のテキヤが組織した新宿の闇市

 

text: 石榑督和

 

 
 

 東京で最初に組織的な闇市ができたのは新宿だ。戦前から新宿周辺を縄張りとするテキヤの尾津喜之助親分を中心に、終戦から5日目、焼け跡を整理して開かれたのが新宿マーケットである。新宿高野の東側中村屋の焼け残ったビルから三越(現ビックロ)にかけて、32コマの店が尾津組によってつくられた。1945年10月、医学生でありながら作家修業を続けていた山田風太郎は疎開先の長野から東京にもどると、その足で新宿の闇市に出かけた。山田の日記には、人だかりの合間から「公定の20倍から30倍の値段」で売られている日用品を見たことが記されてある。



新宿の闇市跡をめぐるツアー

 東京の主要駅周辺は空襲による類焼を防ぐため疎開空地となっていたが、新宿駅東口にも巨大な疎開空地がつくられていた。ここに闇市ができたのは、45年12月に和田組の和田薫親分が区長と淀橋警察署長との協議の末、三越裏で開いていた闇市を移転させてきたのがきっかけだ。和田組の幹部は日本人で構成されていたが、営業者名簿のなかには華僑の名前が散見される。その後、和田組の闇市の北側に野原松次郎率いる野原組がマーケットを建設した。

 一方の西口では安田朝信率いる安田組が、戦中期に造成されていた駅舎建設予定地と民有地の焼け跡にまたがって闇市を開いた。現在も闇市の面影を残す思い出横丁は、安田組が建設したマーケットの一部である。

 1940年代後半に隆盛を極めた東京の闇市も1950年頃からは都市計画によって整理が行われ、一部の営業者は集団で移転して新たにマーケットをつくっていった。新宿では和田組マーケットの営業者の一部が三光町へ移転し、現在の新宿三光商店街(ゴールデン街の北側部分)をつくった。こうした整理が進むなか、思い出横丁が整理されずに現在まで残ったのは、営業者が土地を地主から買い取ることができたためであった。



ツアーで配布された資料