『光のないⅡ〜エピローグ?』観劇記

 

text: 畠山直哉
註: 本稿は『フェスティバル/トーキョー12ドキュメント』より転載しました。

 

 
 

『東京修学旅行プロジェクト』の記録としては、今お読みのこのガイドブックと、もうひとつ、各訪問地で記念写真を撮っている。このプロジェクトの姉妹編である『東京ヘテロトピア』の“ヘテロトピア”という言葉は、フーコーの造語である。それは、鏡の中に映る虚像=ユートピアではなく、それを写し出す鏡そのものを指している。記念写真は、実は撮影されている時に自分たちの背景に写っている景色は見えない。それを後から見直したときに初めて、自分たちと背景がつながり、自分がいた場所を認識するのだ。つまり、ヘテロトピアとして記念写真があるんじゃないかと考えている。そこで、写真家の畠山直哉さんをゲストに迎えて、記念写真のこと、現代芸術の同時代性、そして今この時代における「作品」としての写真について、話してもらった。

Port Bは、トークが行われたニュー新橋ビルを起点したツアーパフォーマンス『光のないⅡ〜エピローグ?』を2012年に行っている。ここでは、畠山さんが2012年に書いてくれたレビューを転載する。(高山明)

 


Port B『光のないⅡ』

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 高山明さんとは、東京芸大の桂英史さんを通じて知り合った。ウチから自転車で行ける池袋の芸術劇場の前庭で、おもしろいことやってるから見に行けと、桂さんに言われたのが最初だった。それはコンテナの中でビデオを鑑賞するような作品だったが、行ったら片付けが始まっていて、けっきょく鑑賞はできなかった。2回目は本人だった。芸大のイベントに呼ばれて横浜に行ったとき「高山といいます」と挨拶された。髪がくろぐろつやつやとしてすべて後ろになでつけられていて、くっきりとした黒縁のメガネをかけた人だった。

 その後何度か会った高山さんからは、『フェスティバル/トーキョー12』では「写真を使おうと思ってるんですよね」と聞かされていた。僕がその時「写真」で思い浮かべたのは、出たばかりのエルフリーデ・イェリネクの戯曲集「光のない。」(白水社)で、なぜならその装幀には僕の撮影した陸前高田の写真が使われていて、アジール・デザインのせいもあってけっこうたたずまいがクール、であったしだいいち、高山さんはその本に収められたテキストを上演することになっていたのだから、その本が頭に浮かんできても自然だったのだが、彼が考えているのは、どうもそのようなかたちでの写真の利用ではなさそうだった。

 


エルフリーデ・イェリネク『光のない。』

 

 「何時に行けばいいの?」「4時、いや4時半がいいかな」との高山さんの勧めに素直に従い、きっかりその時刻5分前にニュー新橋ビルの3階の(タイ式マッサージの呼び込みとか翻訳サービスの看板とかを通り過ぎて)喫茶店の前に行ったら、通路のちょっとしたスペースに受付のテーブルが置かれ、そのそばで5、6人の男女が、無言で出発の順番を待っていた。僕は高山さんが以前からいわゆるツアーパフォーマンスとかをやっているのは聞いていたけれど、それがどんなものかはよく知らなくて、小型のラジオ、イヤホン、小型のトーチ、地図のカードのセットを係の女性から渡されて初めて、これから行うことがなんとなく把握できた。プラスチック・ケースに入った官製ハガキサイズのカードは12枚セットで、通し番号が振られており、それぞれにオリエンテーリングよろしく各ポイントの記された新橋界隈の地図が丁寧に描かれ、それを裏返すと写真、白い放射線防護服を着た男たちとか、避難した住民たちとか、立ち入り禁止地区とかが写っている写真があって、ああこれが彼の言っていた「写真」なのかもしれないと思いながら、係に促されて出発したのだったが、来た通路を逆にたどり玄関へ降り、ビルの外に出てみたら、なんだか街の眺めが一変していた。

 眺めが変わったといっても、環境はさっきと何も変わっていなかった。SL広場で人を待つ黒いコートのサラリーマンたちとか、足早に新橋駅に向かったり、いきなり立ち止まってケータイに触れたりしているOLたちとか、何も変わってはいなかった。でもそのような人々がさっきと違って、いまではガラスの向こうをスロー・モーションで動く生物かなにかのように見える。

 地図カードを握りしめての、ひとりぼっちのツアーが始まったとたん、環境の持つ時間と、僕の内的な時間との間に、何か食い違いが生じた。食い違いというか、地図をきっかけにして自らの知覚を再知覚する羽目になったというか、つまり「意識」が不意に発生したというか、とにかくその食い違いは、歩行する僕の眼に映るすべての眺めを、フレッシュで濃密なものに一変させた。そしてその眺めは同時に隔たりを伴って、自分から遠いものに感じられた。フレッシュで濃密で遠い眺め。これはつまり「風景」だ。

 「風景」はその性質上、あまたの表象を呼び寄せる。「隔たり」はとにかく何かによって埋められる必要があるのだ。そのために個人的な記憶や知識や、自然に関する昨今の怖ろしい光景や嘆かわしい言葉や、そういえばいま握っているカードの裏面にある福島の写真像や、表象不可能かもしれないあの忌々しい放射能のことや、そのようなすべてが、ここ新橋の路上にも呼び寄せられた。そしてそれら大量の表象が、周囲の空やビルや人々と重なり、複雑な光の層を成すこととなった。僕はその光の層をかき分けるようにして、まるで全力で泳ぎでもするようにして、道を歩かなければならなかった。

 交差点で信号を待っているときに横を見たら、少し離れたところに、地図カードを手に持ち、首から小型のラジオを下げた男性が立っていた。たぶん道に迷って、予定より少し遅れて歩いている、僕と同じ観客だろう。あ?「観客」だって? ああ、そうだった、すっかり忘れていたが、これは演劇作品だった。だとしたら、少し楽になった。もし僕が観客でなかったら、もしこれが「作品」でなかったら、僕はこのまま「風景」に押しつぶされてしまって、これ以上歩くことができなくなっていたに違いない。「作品」は、「風景」によって狂いつつあった僕に手を差し延べ「観客でいて下さい」と、いまいる街を「舞台空間と等価に考えて下さい」と、微笑んでくれている。ああ、よかった。「作品」とは「風景」なんかと較べて、僕らにとってなんと理性的で優しい味方なのだろうか。これでまた歩くことができる。ところで、これが演劇作品であるというのだったら、では俳優たちは、どこにいるのだろうか?

 そうやって地図カードの示すポイントにたどり着いたら、そこに俳優たちがいた。たしかにいたが、一人は肉体があるのに姿が見えず、別の者は見えても、肉体を持っていなかった。つまり両方とも幽霊だった。

 一人目の俳優とは「声」で、だからいちおう肉体があって、イェリネクの戯曲を演じていた。でも声だけだったから、しかもこっちが懸命にチューニングするFMラジオから雑音と共にとぎれとぎれに聞こえてくるような声だけだったから、いくら肉体があるといっても、それはどこか遠くにあって、姿の見えないものだった。思春期の少女のものらしい少し鼻にかかったその声は、日本語で「わたしは一人の女がここで死者たちを埋葬したのを見た、だが今はもうなにも見えない。わたしには身をかがめる女は見えない、…」と、けっこう難解な科白を真面目に演じていた。この科白のハードさに、日本の少女の声の質がマッチしているとはいえないだろうが、だが却ってそのせいでこの声は、日本の少女でありながらそうではない何者か、といった風にも聞こえるのだった。マイクが話者の口元近くにあるせいで、それをイヤホンで聞いているせいで、抑制の効いた少女の声は、僕の耳元から直接脳に注ぎ込まれてくるようだった。「…哀しむ鳥は見えない、つむじ風を生む暖かな風は見えない、哀しげな天上の者たちは見えない。…」。連続的に現れる「ない」という音のトーンがどこか懐かしく、雑音の向こうに再びそれが繰り返されないかと、僕は耳を澄ませた。この少女の「声=肉体」は、きっと福島の空の下にあるに違いないと、僕は思った。

 二人目の俳優とは「写真」だった。というかセノグラフィ(scénographie )になったフォトグラフィだった。フォトグラフィが現実空間にむっくりと起き上がって、セノグラフィ(舞台美術/インスタレーション)になっているのだった。だが「むっくりと起き上がって」という動作が見えるのであれば、それはたんなるセノグラフィであることを超え、セーヌ(scène )そのものを、つまり「劇」を演じているということになるだろう。「写真を使おうと思っているんですよね」と言っていた高山さんは、じつは写真を俳優として使おうとしていたのだ。

 たとえば「浅川ビル4階」では、雑居ビルの奥の小さなエレベーターに乗り込んでたどり着いた事務所のドアを開けると、奥に障子、下手に襖、上手に床の間、そして夜具やアイロン台や目覚まし時計などの日用品といった、典型的な地方の家の八畳間がじっさいにそこに出現していた。明るく光る障子の向こうはたぶん外に面した廊下で、そこには洗濯物なのか、衣類が数点掛かっているのが透けて見えた。部屋の雰囲気はもちろん不穏で、その不穏さはおもに、手前の空間の暗さと、畳の上に広がったままの夜具からやって来ているのだが、世の中に蒲団ほど独特の雰囲気を醸す物体もないとはいえ、それ以前にこの厚くて軽くて暖かそうな掛け蒲団は、大きくめくれ上がったままではないか。枕は定位置からずれ、しかも縦になっているではないか。まるで誰かに眠りを覚まされ飛び起きた人物が、そのまま部屋の外に出て行ってしまって、なにかの理由で二度と帰ってこないというような、そんな雰囲気ではないか。

 これはデジャ・ヴュであった。この場面(scène )は、どこかですでに(déjà )見た(vu )ものだった。これはたしかに福島のある家の様子だったはずだ。放射能のせいで、家を出たまま帰れなくなってしまった住民の悲劇を雄弁に伝える表象として、広く記憶されたものだったはずだ。いささかうろたえながら、手に持っていた地図カードを裏返してみたら、なんとこの部屋の写真がそこにあった。いや、逆だ。この部屋は、AP通信のガッテンフェルダーという米人写真家が福島で撮ったあの一枚が、現実空間にむっくりと起き上がったものだった。細部に至るまで注意深く、ほとんど模写に匹敵するほどの根気を持って、写真は新橋の雑居ビルの一室に、物体として立ち上げられていたのだ。

 


Port Bのツアーパフォーマンス『光のないⅡ』

 

 写真には「風景」と同じようにその性質上、一人の撮影者がシャッターを切った瞬間に呼び寄せられたあまたの表象が、層になって潜在している。だからこのセノグラフィは、写真を参考にして漫然と作られてはならなかったのだ。模写のように徹底的に、写真そのものを起き上がらせたものでなくてはならなかったのだ。そうしなければあの「動作」は生じなかった。写真が俳優にはならなかった。

 1時間半ほどのツァーの中盤で陽は落ちネオンが灯り、街のあちこちから肉を焼く匂いや酔客の喧噪が漂い始めた。「4時半頃がいいかな」と高山さんが言っていた訳がわかった。環境の変化によって「風景」の質も刻々と変わっていくことを、彼は言いたかったのだ。僕がこのように歩いたすべての道にかんして、12カ所それぞれのポイントにいた幽霊としての俳優たち(すべての少女の声とか、放射線防護服をじっさいに販売している店舗とか、ひび割れた地面に転がったラジカセとか)にかんして、いちいち述べてゆきたいのはやまやまだが、もう紙幅は尽きつつある。

 ツアーのゴールはスタート地点と同じ、ニュー新橋ビル三階喫茶店前。古典的な「フル・サークル」の構造だ。出発地点に戻って、自分がもはや以前と同じ人間ではないということに気が付いて驚く、なんてところもぐっと古典的だ。地に足のついたポスト・ドラマ。ゴールに立っていた高山さんは、僕を見つけるとにっこり笑って、自分の黒い靴のゴムのかかとを指差した。かかとは斜めにすり減って、穴がのぞいていた。僕は彼に、少女の声の録音をねだった。数日経って届いたCDを暗室で再生しながら、僕は陸前高田の写真をプリントした。

 


ニュー新橋ビルで筆者によるトーク