植民地台湾と神社の記憶

 

text: 青井哲人

 

 
 

 台湾・樺太・朝鮮・南洋群島・関東州・満州国・・・あるいはブラジル・ハワイ。日本の支配地域や日本人の居住地には必ず神社がつくられた。以下では植民地台湾の神社について、もうひとつの主要植民地であった朝鮮と比べながら見てみよう。

 朝鮮半島の場合、植民地支配の前にいわゆる開港期がある。仁川、京城、元山などの開港場・開市場に日本人居留地が設けられ、居留人口が2~3千人になると神社創建が実行された。彼らは自ら整備した公園のなかに伊勢神宮の神符をおさめる小振りの神殿を建て「太神宮」と呼んだ。日韓併合(1910)後、こうした神社は「京城神社」などと地名を冠した行政的名称に改められ、域内の朝鮮人も氏子に包摂した。これら地方神社の頂点に、巨大な官幣大社朝鮮神宮が1925年に創建される。

 だが台湾は事情が違う。台湾割譲から数年後の1901年に官幣大社台湾神社が創建され、これをひな形として各地方の「○○神社」がつくられていった。地域社会では日本人住民がそれを信仰上の核とし、学校を中心として次第に台湾人の参拝や祭典参加を広げた。神社境内は緑にあふれる公園でもあって、都市に不可欠な施設のひとつだった。

 1930年代には朝鮮でも台湾でも秋の例祭はなかなかの盛り上がりをみせたようで、都市では朝鮮人や台湾人の多い町でも仮装や出し物を工夫して路上を練った。帝国中の大小都市の、晴れやかで猥雑な祭典の写真が当時の新聞紙面を賑わせたものである。

 祭神についてもふれておこう。台湾神社には、大国魂命・大己貴命・少彦名命のいわゆる「開拓三神」が祀られたが、これは明治維新の翌年に札幌に創建された札幌神社(1869年鎮座、のちの北海道神宮)の先例を踏襲している。北海道の神社の多くが札幌神社の複製的性格を帯びることも含めて、台湾への「植民」は北海道への「開拓」の延長上にあったといえよう。他方で台湾神社は、台湾割譲後の平定戦争で殉死したとされる北白川宮能久親王をもあわせ祀った。

 ちなみに朝鮮神宮の祭神は天照大御神と明治天皇である。前者は神話上の「皇祖」であり、後者は明治のカリスマであって、つまり起源から革新=復古までの「皇統」の時間的垂直軸がソウルに屹立するイメージだ。具体的なローカルな土地の「開拓/平定」という、水平の拡張そのものを象徴化する論理とはずいぶん違う。

 こうした神学を台湾や朝鮮のひとびとがどれほど意識したものか分からないが、参拝・祭礼・観光、そして教育・報道を通じて、また各植民地の首都をめざす修学旅行を通して、祭神の解説がなかったはずはなく、じわじわと彼らの心に沁み込むものもあったに違いない。

 1930年代も中盤にさしかかると、ソウルの南山(ナムサン)は朝鮮神宮・京城神社・京城護国神社の三社がそろい、森林施業や公園整備とあいまって、市街地にくっきりとたちあがる南山の南から西の一帯を立体的な複合神域に変貌させた。台北では、戦後「圓山大飯店」が立つ剣潭山に台湾神社の境内があったが、その東にこれを著しく拡張する改築事業が進められ、そのまた東に台湾護国神社が創建され、ついで明治神宮外苑のごとき複合運動公園が計画されて、軍隊と群衆の靴音鳴り響く一大神域がまもなく現出するはずだった。

 この巨大プロジェクトは戦争そのもののために途絶した。戦争が終わると植民地の神社は、信仰という内実の伴わない集合的記憶として人々の脳裏に残った。現実の境内はといえば、台湾では中華民国の護国神社ともいうべき忠烈祠に転用された神社が少なくなく、県社桃園神社はその社殿さえ残されている。



参考:青井哲人『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、中島三千男『海外神社跡地の景観変容―さまざまな現在』(御茶の水書房、2013)


 


taiwan 明治神宮